ガウルカラの名前の由来はおそらく、非イスラム教徒であるアラブ人のことを“geburr” とよんでいたところからきています。その後、時が過ぎ、gyaur (ガウル)とよばれるようになってきたとされています。アムダリア川の川岸、右手にある城塞です。この城塞は古代の早い時代に作られ、4世紀まで使われていました。
ガウルカラの名前の由来はおそらく、非イスラム教徒であるアラブ人のことを“geburr” とよんでいたところからきています。その後時が過ぎ、gyaur (ガウル) とよばれるようになってきたとされています。ガウルカラはトルトコルへ行く道のヌクスから80キロ南でアムダリア川の川岸、右手にある城塞です。この城塞は古代の早い時代に作られ、4世紀まで使われていました。
この城塞は大きくて、珍しく台形の形をしていて、オリジナルは古典的なホレズムスタイルである2重城壁、2階建ての弓形の回廊、塔、矢狭間を併せもっていました。それは北から南におおよそ450m、北の端までが200mであったとされています。南側に向かい細くなっており、南西は川の土手に沿い曲線を描いた壁となっていました。現在見られるのは北側の壁と西側にある一部となっています。北の壁は最大15メートルほどの高さに保存されています。壁は泥の基礎土台の上に建てられた泥レンガで作られています。東側の壁の基礎が残っているだけで南側は川に流され、完全に崩壊されています。2つの長い壁は両サイドから壁を交差させていたのではないかと考えられています。しかし現存する部分はどれだけ人をよせつけないほどの高さと厳格な壁が存在したのかを物語っています。記念碑は北西の角の砦の中に保護されていました。この中にはいくつかの小さな穴、華やかな砂岩の柱脚、壁がん(像、飾り物を置く壁面のくぼみ)は壁画と漆喰が塗られたものが見つけられており、何か祭壇されていたようにみられています。この建物はきっと火の神聖な場所とされていたことでしょう。
ガウルカラは紀元後3世紀ころのクシャーナ朝時代に使われていたとされています。
ガウルカラにはこんな逸話も残っています。
昔、昔、キプチャックの街には信心深いシシュ-パイガンバという男が住んでいました。この男には美しい奥様がいました。ガウルというお金持ちで男前の若い男は、この奥様に恋をしました。彼女もまた恋に落ちました。しかし二人はお互いに会う機会を持つことは出来ません。そこでガウルは山の上に城塞を築き、その城塞まで彼の家から地下道を作りました。そしてここで二人は会うことがきるようになりました。しかし、それは何度か会ったのちすぐに奥様の裏切りを男は知ることになりました。男はすぐに二人を捕まえガウルを攻撃しました。二人の男は戦い、どちらが勝ってもおかしくない戦いでした。ガウルは恋人に助けを求めます。そこで彼女は一握りのキビの種を旦那の足元に投げつけました。男は滑って転びました。男は転んだとすぐに彼の忠犬を呼びよせ、ガウルの脚に噛み付きました。そしてガウルは落下し致命的な傷を負いました。シシュ-パイガンバは妻をよびつけ「見たか。犬は主人に忠実であろう」といいました。男は妻が反省し戻ってくると思いました。しかし彼女は振り返り歩いていってしまいました。激怒した男は妻を捕まえ殺してしまいました。シシュ-パイガンバが死んだ時、彼の子どもに遺言を残していました。脚を切り捨て、体だけ埋めるようにと。
シシュ-パイガンバが脚を切り捨てさせたのは、脚を噛まれて死んだ男のもとに行った妻に振り向いてもらいたかったのか? なんだったのでしょうか?
いかにしても、このカラはそのような理由で作られたとされています。
あくまでもうわさ話ですけれども。