キジルカラは1 ~ 4 世紀に作られその後放置されていたものを12、13世紀のモンゴル襲撃時に再建されました。65x63m の広さで、ほぼ正方形をしています。駐屯兵の宿舎として使用されたという説とホラズム地方の領主の住居であったという説があります。キジルとは赤いという意味で赤い城塞と呼ばれています。
キジルカラはトプラカラの1.3キロ西に位置しています。
キジルカラが造られたのは、トプラクカラと同じ時代、紀元後1~4世紀頃。
しかし、その後放置されていたところを、12~13世紀のモンゴルの襲撃前に立て直されています。
トプラクカラとキジルカラは古代地下道でつながっていたという、伝説があります。キジルカラは農業の中心部として、またスルタンウイズダフ山脈を通過する隊商ルートの交差点の中心の役割もあったと言われています。
1938年に、考古学者セルゲイトルストフ率いるホレズム遠征の際に発見されました。
キジルカラは65x63mの広さで、ほぼ正方形をしています。
4箇所側のうち、2箇所に塔があり、13~16メートルほどの高さの城壁が残っています。城壁は2重でした。また城塞の入り口は南東にあります。外壁は矢狭間があります。このカラでは火が焚かれていた痕跡があったことより、北東側にはゾロアスター教の寺院があったと言われています。また、城壁の北東には、掘り下げた場所に非常時のための脱出口を確認できます。この城塞が古代の時期にどのように使われたかはいくつかの議論がありますが、ある研究者は駐屯兵の宿舎として使用されたと主張し、また、別の研究者によれば中世早期のホラズム地方の領主の住居であると主張しています。2階建てであり地下にも部屋があったようです。
名前のキジルカラのキジルは「赤い」という意味で、赤い城塞という意味です。
それは、夕日の沈む時間帯に美しく赤く見えることから「赤い城塞」という名前がつけられたと言われています。