カルクケズカラとは
カルクケズカラは、カラカルパクスタンの都市ベルニーの27キロ北に位置しています。大カルクケズカラと小カルクケズカラにわかれています。
カルクケズの由来はウズベク語で40を表すカルクと女の子・女性を表すケズで、「40人の女性」という意味ですが、その由来はアヤズカラに住んでいた王が一人の女性に恋をし、口説き落とすためにカルクケズカラを築きました。しかし、彼女が求婚を断ったため、王は気持ちをなだめるためにここに40人の女性を住まわせた、という伝説があります。
1938年の発掘によりこの要塞は女子校のような、女の子のための教育・科学機関であったのではないかと仮定されています。
大カルクケズカラ
大カルクケズカラは紀元前4世紀から紀元後7~8世紀の時期のものです。アヤズカラから西に延びる防衛ラインの重要拠点でした。ボストンからトルトクルにいたる幹線道路沿いに位置しています。古代の早い時期に築かれ、晩期のクシャーナ朝の時代にも建築され、さらに時代が下った7~8世紀に建てなおされました。
この要塞は長方形の形をしており、弓兵のための矢狭間を備えた2層の回廊をもった城壁に囲まれています。また、城壁は長方形の2層の塔によって防御されていました。入口は北東の中央にあり、要塞は10m以上の外壁によって守られていました。城壁の内側には、農場や領主の邸宅の跡が残っています。一方で外側は現在農地になってしまっていますが、郊外に広大な複合的な建築物があったことを示しています。道路を挟んで城塞の向かい側には、ミナレットの痕跡を見つけることができます。アフリーグ朝時代この周辺は陶器の生産地であり、今日でも陶器の破片を容易に見つけることができます。
小カルクケズカラ
小カルクケズカラは紀元前3~4世紀に造られ、紀元後3世紀後半~4世紀前半に放棄されました。
大カルクケズカラの近くにあり、幹線道路から小路を通って近くまで行くことができます。この要塞は西と東の区域から構成されていて、お互い隣接していました。西の区域は2重の城壁をもつ円に近い形をしており、2列の矢狭間がありました。東の区域は3mの厚みのある城壁の基礎だけ残っています。小カルクケズカラもまた大カルクケズと同じようにオアシスの端に位置しており、防衛ライン上に位置する重要拠点であったようです。小カルクケズカラはアヤズカラⅠから西の方角に見ることができ、敵の侵入を知らせる烽火台として使われていました。その他、砂漠やステップを北方に行き来する遊牧民が交易を行う中心としての役割も果たしていたと主張している専門家もいます。