トプラクカラは、1 ~ 3 世紀において栄えたクシャーナ朝の時代のもので、3 世紀にはこの場所に首都が置かれていました。クシャーナ朝は政府を作り政治的統制を行なった、大きな変化の時代であったと言われています。壁画や陶器などが見つかり、さらには葡萄畑があったこともわかっています。
トプラクカラはスルタンウイズダフ山脈の丘の、数キロ南にあります。とても広大な遺跡で、農地に囲まれた大地に20メートルの高さで建っています。今日では干からびていますが、古代ではアムダリア川の支流からこの地まで水を引いていました。粘土の城塞と言う名でも知られています。
トプラクカラは、1世紀~3世紀において栄えたクシャーナ朝の時代のもので、3世紀にはこの場所に首都が置かれていました。
クシャーナ朝は政府を作り政治的統制を行なった、大きな変化の時代であったと言われています。
トプラクカラは2~3世紀に起源をもつ、ホラズム王の宮殿でした。これは5つの部分から成り立っています。
・城壁の内部に規則的に設計された道路の部分
・テメノスの部分(テメノスとは:神の使用する領域、礼拝の中心となる神の祭壇を囲む神聖な境内を意味する)
・宮殿や寺院として考えられている大きな記念碑的な建築物の部分
・外交のための宮殿部分
・大きく囲まれた土地は王宮の庭園
最も重要な要塞は8~9メートルの高さの壁で囲まれた長方形の形をしています。この防御用の要塞の壁には矢狭間が備えられており、側面には規則的に塔が作られており、一番大きい塔が北東の角にあります。これらは、紀元後2~6世紀の時期のものです。居住スペースは、工場や作業場として使われていました。北西の一角にあった寺院は、残された遺物からゾロアスター教の寺院であることが確認されています。隣接した建築物からは、羊の角の装飾品やガラス製の容器、玉、指輪、腕輪、漆喰の彫像の破片、金銀の葉飾りが見つかっています。両方の建築物は、ともに紀元後4~6世紀のものと考えられています。
宮殿は居住スペースの北西の角にあって、中央アジアのクシャーナ朝期の建築物の中でもっとも大きいものの1つで、よく保存されています。
1938年にソビエト時代の考古学者セルゲイトルストフによって発掘されたトプラクカラは、壁画や陶器などが見つかり、さらには葡萄畑があったこともわかっています。